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基肄城(きいじょう)

日本最古の山城



665年に築かれた基肄城(きいじょう)は、標高404mの高さから基山町の発展と振興を見守り続けています。


<< アクセス >>


基肄城(きいじょう)にアクセスする方法は一般的には2通りあります。1つは水門跡側、もう1つは草スキー場側からです。



2020年7月現在、災害復旧工事中により『水門跡』側は車両通行止めになっています。 


脇の登山道から頂上に行くことができますが、連日の大雨により地滑りが起きやすい状況になっております。登山を検討される方は役場までお問合せすることをおすすめいたします。



2つ目は、鳥栖筑紫野道路(宮浦IC)から基山(きざん)草スキー場駐車場まで進むルートです。


『瀧行徳寺』奥の院第1駐車場を右手に、さらにお進みください。※道が狭くなるためご注意ください。


基山草スキー場駐車場から、基山山頂付近まで徒歩で約20分ほどで基肄城にアクセスすることができます。


2020年7月6日からの大雨の影響を受け山地災害の観点から通行止めとなっておりましたが、通行規制を解除しました。

連日の豪雨により地盤が緩くなっている可能性も考えられるため、通行や登山の際は十分にご注意ください。


通行状況に関しましては基山町役場ホームページおよびこちらからご確認ください。


<<基肄城の歴史>>


7世紀後半、朝鮮半島では中国の唐と新羅(しらぎ)の連合軍が百済(くだら)を滅ぼしました。その百済復興のため、日本は援軍を送る決断をしましたが663年の白村江(はくそんこう)の戦いで大敗してしまいます。

このため、唐と新羅の連合軍が国内に攻めてくるかもしれないという緊迫した情勢が生まれ、中大兄皇子(後の天智天皇)は大宰府防衛施設の建造を急ぎました。こうして665年に築かれたのが基肄(きい)城です。

百済高官の指導により築かれたこの朝鮮式山城は、大野城とともにわが国最古の山城といわれ、山全体の地形を使い周囲4キロに城壁を廻らす壮大なもので、今もその雄大さを感じることができます。


<<基肄城の魅力>>


(上図:いものがんぎ)

草スキー場から基山山頂への途中にある凸凹の地形は「いものがんぎ」(イモの畝の意)と呼ばれています。これは人為的に作られたものであり、敵が攻めにくいように中世に作られたものと考えられます。


(上図:礎石群)

基肄城内には基肄軍団と呼ばれる軍隊が駐屯していたといわれています。食料や武器の倉庫、住居などの柱を据えたと思われる礎石群が今も多く残っています。


(上図:山頂)

山頂は台地上になっており、すばらしい眺望がひろがります。山頂南端にはタマタマ石と呼ばれる巨大な岩があり、南の麓に鎮座する荒穂神社の磐座(いわくら:神の御座所の意)と考えられており、信仰の対象となっています。


(上図:東北門跡)

福岡県筑紫野市との境界上にある東北門跡は、門柱を据えた礎石がはっきりと残る貴重な遺構です。この門は大宰府との連絡にも利用されたと考えられます。


(上図:つつみ跡)

この直径約18メートルのくぼみ「つつみ」は貯水池かのろし台の跡と考えられています。


(上図:水門跡)

谷を流れる筒川の水を通す「水門跡」。基肄城跡のなかで、もっとも見ごたえがあるといえるでしょう。悠久のときを経た今も水が流れます。谷口をふさいだ石垣も一部残り、ここは南門があったといわれます。


(上図:土塁跡)

土塁はいくつかの谷部の石塁(石垣)と一体となって山城全体を囲み、敵の侵入を防ぐための城壁を形成しています。


(上図:鐘楼跡)

この地点には古くから「カネツキ」という名が残されており、伝承では寺院の関連施設があったといわれています。またここは、城内が一望できる場所にあることから、情報伝達用の施設があったとも推測されています。


(上図:米倉跡)

炭化米が出土したことから、この礎石群は米倉跡と呼ばれます。


 





詳細情報

スポット名 基肄城(きいじょう)
住所 〒841-0201 佐賀県三養基郡基山町小倉 Googleマップで見る
スポット カテゴリー 歴史

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